と、一言で云うのは難しい人物です。
伊藤博文は初代総理大臣とか、宮本武蔵は剣の達人とか、伊能忠敬は大日本沿海輿地全図を。。。
などと、説明できますが、龍馬をあまり知らない人に「どんな人?」って聴かれると、
逸話が多すぎて、聴いてる人が引いてしまいそうになります(笑)
1836年(天保6年)現在の高知県高知市上町(土佐国)に生まれる。
母が龍が体内に入る夢を見た後に龍馬が生まれ、
背中に龍や馬のように毛が生えていたところから
『龍馬』と命名されたと小説やマンガで紹介されておりますが、
これは、龍馬が有名になってからの後付けらしいです。
泣き虫で、友達と遊んでもすぐに泣かされて帰ってきたようで、
楠山庄助塾も出来が良くなく、すぐに退塾させられました。
と、小説やマンガなどに載っていますが、龍馬は14歳で日根野道場に入門するまでは、
楠山庄助塾に入って退塾させられたこと以外ほとんど資料がないのです。
江戸時代には士農工商といった身分制度がありましたが、
土佐藩では「士」の中でもさらにランクわけがされていて、
坂本家は藩主に拝謁することもできない「郷士(下士)」という位でした。
その為、差別ある世に疑問を感じていたそうです。
土佐藩の日根野道場で「小栗流和兵法自目録」一巻を伝授されています。
江戸では北辰一刀流千葉定吉(千葉周作の弟)に入門しました。
龍馬に与えられた北辰一刀流の目録は現存するものは
「薙刀(ナギナタ)」のものだけですが、江戸の三大道場のひとつ
桶町の千葉道場で塾頭をしていたのだから、
それなりの腕だったと考えられます。
千葉定吉の息子重太郎と二人で勝海舟を斬りに行ったが、
勝の話しに感銘を受けその場で弟子入りする。
元々竜馬は「尊皇攘夷論者」で、外国人(欧米人)と友好を唱える
勝海舟を「国賊」に思えかも知れませんね。
斬りに来た相手を逆に説き伏せて、そのまま弟子入りさせるなんて、
素晴らしいですね。
長崎で『亀山社中』という浪人集団を作り、
武士は商売をしないものという社会通念に反し、
諸藩を相手に商売をはじめました。
今の株式の仕組みを日本に初めて取り入れたのが、
亀山社中と云われてます。
同じ倒幕派なのに、不仲であった薩摩藩と長州藩の間を取り持ち
仲直りさせ同盟を成立させました。
これによって明治維新が成立し得たのです。
薩長同盟成立は龍馬一人のお手柄というわけではありませんが、
やはり龍馬なくしては成立しなかったでしょう。
京都で伏見町奉行配下に襲撃され負傷した傷の治癒のためもあり、
妻のお竜と鹿児島へ行き、塩浸温泉・霧島山で遊んだことが
日本初の新婚旅行とされています。
維新後に明治政府が発布した『五ヶ条御誓文』の原型である
『船中八策』を後藤象二郎を通じ、藩主山内容堂から将軍家に
提案させたのも龍馬です。
慶応3年11月15日(1867年12月10日)
京都の旅寓・近江屋新助宅母屋の二階で
十津川郷士と名乗る男達数人に中岡慎太郎と共に暗殺された。
旧暦の誕生日と命日は同じ。